第七話 『スタートライン』

 ノーフューチャーは毎週のホコテンと平行して渋谷ラママ、下北沢シェルター、西荻窪ワッツといった
ライブハウスでの活動もたくさんやっていた。結成から早100本目のライブを迎えようとしていた。
あのトイレ立ち話事件はデカかった。ブレーキの効かない車がエンストを起こした。
 自分達のやってる活動がまだまだ趣味の延長に過ぎないことを痛感させられた事件だった。
ずっとチャラチャラして馬鹿にしていたけどホコテンの対面で演ってる人気バンド達は戦略を立ててメンバーで密に話し合ったり、
時にはプロデューサーみたいな人に怒鳴られたりしながら頑張っていたのだ。

彼らがノーフューチャーの事を「楽しそう」と言ったのは売れたいとかとらわれず自由気ままにやってるように見えたからであって
全然次元の違う話。東京に来ていろんな人に出会い、熱い話はいっぱい聞いたし、やりたい事もいっぱいやってきたけど
具体的にどうするこうするとやっている人は少ない。まさに対面のバンド達は好きな事、やりたい事よりも
やるべき事を実行している。それを観れたという事は凄く良かった。そして僕は、一つの結論に達した。

「僕にはできない」

そして、こうなったら逆に「好き」を追求しようと決めた。
実際ノーフューチャーには「楽しく、上手く行けば売れたい」という曖昧さがあった。結局その中途半端さが、
自分達をも惑わしていた気がする。そしてメンバーで話し合い、それぞれが好きな事をやるために出た答えは
「ノーフューチャー解散」だった。その時なぜか真冬の三浦海岸だった。

記念すべき100本目は代々木チョコレートシティ。それが解散ライブになった。
たくさんのファンが集まってくれた。自分たちが2年間がんばって集めたファン達。「やめないで!」と叫んでくれた娘もいた。
最後は涙で幕を閉じた。そして翌日から僕の過酷な「好き追求の日々」が始まったのである。気付いたら二十歳になっていた。





第八話 『1.2列目』

 解散後もライブは毎週のようにやっていた。バンド名もとりあえずノーフューチャーのままで。
僕は止まって考えるのが嫌なのでとにかく動きながら『本当の好き』を見付けようとしていた。
だからこの頃は実験的なライブが多かった。

 僕は若いうちに『好き』を追求したかった。『バンドが好き』とか『音楽が好き』とかの大枠ではなくて、
『バンドのこの部分のこの中のこの細胞が好き』と掘り下げたかった。
多くの人々がそんな細かい事を気にしない事も知っていたが、自分には見付けれる気がしていた。
逆にそれを見付けれないと、又前の様に自己満足な日々を送る事になるという恐怖でいっぱいだった。

 結論から言うと僕は2年かけてその答えにたどり着いた。その日以来ずっとそれを愛している。
愛があるからいっぱい傷つくし、嫌な思いも沢山する。喜べる日なんて一年に一度あるかないか。
ただその喜びは他に代わるものがないほどデカい。それを一言で説明するのは難しいのでやめときますが、
これで僕が変わったのは間違いない。


☆-∈



第九話 『実験結果』

 実験ライブも少しずつ進歩してきた。最初は今までのノーフューチャーにコミックの要素を足した事をやっていた。
替え歌、モノマネ、面白アレンジなどいろいろやって来たが、やはりメンバーやお客さんの戸惑いは相当なものだった。
小澤健一までもが脱退する事態になった。
伝説の『西荻窪ワッツ ノーフューチャー定例ワンマンライブ』もお客さんゼロで幕を閉じた。
ノーフューチャーで実験できる状況がどんどんなくなり、逆に新メンバー達の勢いで音楽性に比重がかかり始めてしまった。

(やばい、また普通のバンドになってしまうのか!)

  ようやくメンバーが定着しバンド名が決まった。『アプリコットヒップス』。舞台は完全に新宿。新宿ジャムと新宿ロフトの2本柱。
メンバー全員が同じ所にむかってる感覚がたまらなく良かった。ライブハウスの人も一緒になってアイディアを出してきたり。
「アンダーグランドでは間違い無く成功する」と太鼓判まで押された。だが僕の実験フラストレーションは溜る一方。。。

とうとうあの男に会う事にした。


○ ● ○ ● ○ ● ○ ●



第十話 『二股』

 話は中高校時代にさかのぼる。1987年Boφwy解散をきっかけにバンドブームは一気に加速する。

 僕がドラムを初めた年でもある。翌88年に『イカ天』が始まり、バンドが筍のように毎日デビューしていた。
あのパワーは凄かった。僕は絵に描いたようにこのブームに乗っかった。…わけではなかった。
 実は関西圏では『イカ天』が放送されていなかったのでブームは一足遅れていた。
それよりもダウンタウンがテレビに出てきた勢いで第三次お笑いブームが始まっていた。
所詮お笑い王国大阪ではバンドなんてチャラチャラした遊びにしか過ぎなかったのだ。やっぱ大阪は別の国やね。
もちろん僕もハマった。ちなみにトミーズファンでした。

 お笑い第三世代の幕開けとバンドブームは思春期の僕を大いに悩ませた。
バンドのメンバー探しと漫才の相方探しに明け暮れた中高時代だった。
当時住んでいた街にはバンド人口が少なかった為、楽器を弾いてると言うだけで噂が広まりバンドに誘われる事が多かった。
ましてやドラムは更に少ない。選べる立場にあるのだ。いろんなバンドでプレーしてみたが一度や二度で冷めてしまう。
理由はボーカル。なんかピンと来なかった。目立ちたがりなくせにスター性が無かった。残念。

 ある日知り合いから同じ学校の1つ先輩になかなか良いハーモニーのデュオがいると聞き、会ってみる事にした。
ある夜、ジョウホ(大阪城ホール)で路上(その頃はストリートライブをそう呼んでいた)をしてる噂をキャッチした。
衝撃的だった。時代はバンドブームだと言うのに、その二人組は淡々とチャゲアスや剛(長渕)の曲を唄っていた。
「なるほど!こんな表現手段もあるのか」 僕は次の日からメンバー探しをやめ、弾き語りで路上ライブを開始した。
京橋駅をホームグランドに毎晩学校帰りにやっていた。これがボーカリストとしてのスタートになった。
そのデュオともしょっちゅうギターを持ち寄って集まるようになった。オリジナル曲をお互いに披露したり、
新しく覚えたコード教えあったり、先輩後輩の垣根を超えて音楽の話題は尽きなかった。まさに良きライバルだった。

そのデュオの一人があの『佐藤小林』である。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪



第十一話 『佐藤小林』

 なんと言ってもこの名前は強烈だった。初めは信じなかった(今でもまだ疑う時がある)。
でも名前よりも彼の人間性の方が強烈だった。

関西人離れしたスローなしゃべりと柔らかい表情は周りにいる友達、全てを幸せにするくらいのオーラがあった。
彼に会う時は神や仏に会いに行く心境と同じで、御供え物は欠かさず用意して行った。
連日悩み相談にくる若者の行列が出来る程だった。何を聞かれても「せやなぁ〜がんばりや〜」と応えてみんなを元気にさせていた。
とにかく今までに出会った事のないタイプの人でめちゃめちゃ興味を持った。
まさか将来一緒のメンバーになるとは想像もしなかった。

そんな佐藤小林と東京で再会する事になったのはアプリコットヒップスがロフトやジャムでバリバリやっていた頃だった。
アプリは音楽的にも活動的にも問題なく進んでいたが完全にワントップスタイルだったので、
僕が理想とする『1.2列目』とは程遠かった。フラストレーションがピークまで達し、とうとうバンド脱退を考える所まで来ていた。
ギターリストならともかくボーカリストが『1.2列目』を考えるのは普通ありえないので、理解されないのは当たり前。
実際あれから10年以上経つがそんなバンドは現れていない。しかし自分には出来る気がした。
こんな事を佐藤小林に相談してみた。すると、「せやなぁ〜がんばりや〜」と言ってくれた。

翌日アプリコットヒップスのメンバーに脱退を告げた。





第十二話 『再会』

 奇しくも新宿ロフト夜の部昇格が決まった日にアプリコットヒップスは解散を発表した。
ロフトの夜昇格はアマチュアバンドにとってかなり名誉な事で、まさにこれからっていう感じだった。
一瞬「解散取り消そうかな」とも考えた。でも僕のフラストレーションはメンバーにもファンにも伝わっていた程だったので、
みんな「しかたないよねぇ」と逆に同情してくれた。
そして翌月新宿ロフトでアプリコットヒップス解散ライブをやった。佐藤小林や2年ぶりの再会となる小澤健一も観に来てくれた。

この日の打ち上げの時にある企画ライブが立ち上がった。一夜限りの『チャンピオンズライブ』。

普段各々活動しているボーカリスト4人、僕と小澤健一と佐藤小林そしてこの企画者でバンドを結成してライブをするという内容。
(小澤健一も僕と離れていた2年間はボーカリストとして活動していた)

ちょっと肩の力を抜いたオアソビ的なイベントのつもりで…。

しかしいざ、ボーカリストだけで集まってみるとアイディアだけでも普段の4倍。声も4倍。
それぞれの主張がぶつかって大変。なんとかそれを捌く。各々の主張を残しつつ、自分のやりたい方向へもっていく。
上手く妥協点を見つけてゆく。そして仕上げにコメディの要素も足して行く。フロントマンでありながら構成や演出をする。
まさに『1・2列目』の仕事。みんなの主張が強ければ強いほど僕のアイディアもどんどん溢れてくる。
気がつけば僕が求めていた世界をとうとう見つけてしまったのだ。

1997年12月14日渋谷ギグアンティック『チャンピオンズライブ』は一夜限りのはずのイベントだったが、
僕はみんなを口説き始めた。「2年でいいから乗ってくれ。これを本格的にやりたい。必ず成功させる!」と。
東京に来てもうすぐ5年。23歳になろうとしていた。まさに鴨が羽をバタつかせて飛び立つ瞬間だった。


第一話〜第六話に、もどる   第十三話に、つづく



home / profile / bbs / information / radio / column / listening / mail order

(C) Hook All Rights Reserved 2000-2008